コンプレックスについて(改訂版)

今回は珍しくタイトルが決まってからの書き出しになった。
「こういうことが書きたいなー」と思ったことがあって、忘れないうちに、そして自分の中での整理の意味も込めて、それについて書こうと思う。

※ちょっと大事なことが抜けたから書き足します。


なんでこんな記事を書こうと思ったかというと、理由は二つあって、ひとつは今日大学の授業内で先生がこぼしていた愚痴で、先生が他の授業中に現総理に対して「あべちゃん」と言った際に、学生から「仮にも一国の総理に対してイチ大学の非常勤講師が「ちゃん付け」はおかしいと思います!」と食ってかかったらしい。

本題に入る前に、これは何も右翼だの左翼だのっていう話をしているわけじゃないよ。(個人的にはそういうカテゴライズが古クセーと思うけど。)

あくまで民主主義の根底には政治家をおちょくったり皮肉ったりすることが自由にできる、というものがあるべきだということだ。
じゃなきゃただの独裁政治だし、そもそも政治家なんて本来偉くもなんともないのだ。
俺らは選挙の時を除いて偉そうにしている政治家しか見たことないからつい錯覚してしまいがちだけど。

んなことは本題の趣旨からははずれるからこの辺までにしておいて、もう一つの理由だ。
つい最近、とあるすごくねじ曲がった学歴至上主義でお金大事マンの男子大学生の話を聞いた。
まあこれだけ書けば説明はいらないと思うけど、そういうことだ。

ここでブログのタイトルに戻るこの二つには共通点があり、両方とも「権威主義者」ということだ。
権力や社会的地位の高い人、有名人=偉い、すごい、尊敬に価する、といった感じだ。僕から言わせればくだらないの一言に尽きるんだけど、えてしてそういう人が多いのもまた事実だと思う。
それが自分の中では当たり前になってしまっている。


これは、自分がどれだけコンプレックスを抱えて生きているか、ということなんだと思う。
人は多かれ少なかれコンプレックスは抱えている。
ただ、それを自分で理解して、受け入れられるかどうかが大事なんだ。
受け入れられたものはもうコンプレックスではないと言って良いと思うし、そうやって一個一個減らしていくことで他人に優しくなれたり、相手の立場になって言葉をかけてあげられたりするんじゃないかな、と思うんだ。

だから、それほど偏差値の高くない大学を出た人、あるいは例えば慶應大学みたいな、他所から見れば十分に偏差値的には高い大学に通っている人も学歴コンプレックスがあったりする。
それは「東大に落ちたから慶應にきてる」というところからくるもので、どのレベルの大学にいってもそういう人はいる。

これはなにも大学に限った話ではなく、高校や中学にもいる。
実際、僕が通っていた高校では、隣のクラスの子が高3の頭に高校を辞めた。
そいつが1年の頃に悩んでいたのは知っていたけど、3年まで引っ張るとは思っていなかった。
そしてこういう人は、自分より低い人をとにかく見下す。
「お前は中卒のくせに」とか、「〜〜大学のくせに」といった感じだ。
あるいは職種や生まれた土地、国籍などで人を見下したり差別したりする人も、根本は同じだ。
要は、自分より弱い、劣った(気がする)ものを見つけたいのだ。自分より下を見つけて、安心したい。

年収で人を判断する人も、僕は同じだと思っている。
こいつはこんだけしか稼いでないから価値ない、とか、平気で言う人を知っている。
「明日お金の価値が0になったらどうするのさ?」と思っちゃうんだけど、そういうのって現実的じゃないって一蹴されておわるんだよね。

で、今日大学で先生に言われたのが、そのクラスは6人くらいの授業で、僕以外みんな女の子なんだけど、「良いか!絶対にコンプレックスの塊みたいな男とだけは結婚しちゃダメだぞ!」ってことだった。
幸い、うちのお父さんはそんなことはないんだけど、ものすごく身近にそうやって他人を意味もなく見下すような人がいるから、その面倒くささはわかる。

もう50代だろ、何やってんだよ、って思うんだけど、悲しいかな、そういう人は50代〜60代くらいに圧倒的に多い気がする。

もちろん男だけでなく女にもいる。

年齢層だって、5.60代が多いは多いけど、若い人たちにもいっぱいいるんだ。

誰もが誰かを見下して、誰かの失敗を待っている。

誰も得しないし、みんな嫌な気分になる。

でも、だからこそ、自分はどんなものなんだろう、と、そうやって自分の気持ちに耳を傾けることで、他人にも優しくなれるんじゃないかなって思った。

おーわり!