会話

僕は人見知りではないけれど、心を開いた人にしか自分を見せない。
ただ、心を開くかどうかは付き合いの長さなどでは無く、会って数分後に開く人もいれば、何年経とうが無理なものは無理!っていう人もいる。
当たり前のことではあると思うけど、でも「開ける相手」がいることは本当に幸せなことだと思っている。

なんなら親にも言えないことを言える相手だったりもするからね。

開く人には2パターンあって、こちらが開きたいと思う時と、向こうが開いてくれた時。
開いてくれる時はだいたい「話したそうな感じかな?」っていうのを察して、こじ開けるようなことはしないけど、いつでも受け入れる準備は出来ているよ、という態度を示す。
もちろんそこで開く開かないは相手の自由だし、言える範囲のことを言ってくれれば構わない。無理してあれもこれも言う必要は全くないし、言われなかったからといってネガティブな感情を持つことも一切ない。
見せてくれた量に関わらず、信頼してくれたことへの感謝と喜びとこちらからの信頼をもって接する。

ただ、これだと「信頼してくれたから信頼する」というような、ようは条件付きの信頼に感じてしまうこともある。

もちろん信頼してくれた相手に対して信頼しないことはないのだけど、なんか申し訳なく思ってしまうのだ。
なので、基本的には「この人を信じたい」と思った相手に対して、こちらから行くようにしている。
それで裏切られることもないわけじゃないけど、まあそうなったらそれはそれで仕方がないと割り切る。

その後もその人を信頼するかどうかは別の話だけど、そういう人はあまりいない。

ただ、どうしても心を開けない相手という人はいる。

どういう人だと無理なんだろう、となんとなく考えたりしていたんだけど、昨日、一つの答えにぶつかった。

 

お世話になっている知り合いの方と1対1で飲みにいったんだけど、その飲み屋にたまたまその人の知り合いの人と、その知り合いの知り合いの人がいた。

まあ、よくある話なのでなんとなく話を合わせたりどうでもいい話をしたりしていたのだけど、「そういえばあの子の話ってどうなった?」とか「進路どうするの?」といったすごくディープなところを鬼くそ無理やりこじ開けようとしてきたので、仕方なく話すことにした。

仕方なく、と言えど、話す内容は真面目なことだったのでこちらも本気で話していたのだけど、その時に「あ、こういう人無理だ」と思った。
こちらが本気で話していることに対して、的外れはことを言われるのはまだ良いとして、適当に返されるのが一番こたえるのだ。
もちろんそれは相手にとってはしょうもない話だったから適当に返したんだろうけど、こちらとしては、やはりそれでは信頼したくともできないのだ。

言葉には、特に日本語には「言霊」という言葉もある通り、本気になればなるほど、気を込めて話している。

それを適当に返されると、そこで「気」のやりとりがなくなり、結果としてこちらにも何も響くものがない気がするのだ。
だからこそ、僕はここ最近特に、話すときや自分の感情を表す時は、しっかりと伝えるようにしている。そして、それ以上にしっかりと聞くようにしている。
独りよがりになっても意味がないし、相手あってこその会話であり、コミュニケーションであり、人間関係であるからだ。
本気で、そのままの感情を自由に伝えられる相手がいることほど幸せなことはないし、そしてそれ以上に自分も誰かのそういう存在でありたいと、心底思う。

自己犠牲をする気はないけれど、他者のために何ができるか、それはしいては伊勢谷友介さん風に言うと、他生物や地球環境のために何ができるかを考えることにつながると、大真面目に思っている。
繰り返しになるけど、自己犠牲をしたいわけじゃないからしたくないことはしない。

ときめかないことも極力やらない。

それでも、できることはいくらでもあるし、それこそが自分の生きる意味なんじゃないかと思う。


Mr.Children - 終わりなき旅 - STADIUM TOUR 2011 SENSE ...

普通のブログなのに話が膨らみ過ぎちゃった。笑
いつも読んでくれてありがとう〜〜〜!!