祝
おめでとう!
かつて僕は、大学受験の折に健闘虚しく浪人が決定してしまった直後に誘われた花見の席で、知人のおっさんにそう声をかけられた。
「あ、どうも、、浪人が決定しちゃいました。。」
「えっ!マジで!?落ちたの?!おめでとう!!」
「あ、ありがとうございます。。」
この人はもちろんイタズラにヒトを傷つけるような人ではないし、何か僕のことを思って声をかけてくれたのだと思う。
しかし、当時の僕はこれから1年間の長い浪人生活がまさに始まったばかりで、とても気分が沈んでいた。
当然周りも、
「そっか、残念だったね!」
「頑張ってね!」
と言った類いの声をかけてくれた。
もちろんかけてくれた全ての声がありがたかったことには間違いないのだが、浪人が決まった自分に対して、「おめでとう」というのは、感謝こそするにしても、いささか混乱させるものだった。
「えっ?自分落ちたんスけど…」
という気持ちが率直なところだった。
最近、なんとなくその意図が分かるようになってきた。
確かに最初の受験には落ちた。
もちろん努力不足が原因だ。
ただ、そこから頑張ったから今の自分があると思える。
落ちたことが全て悪いわけではなく、だからこそ今があると、最近強く思うようになった。
もちろん受かっていたらそれはそれで別の道があったのかもしれない。
でも、少なくとも今の道を進んではいなかった可能性も高い。
ドイツ語をやることもなかっただろうし、大学に入ってからの努力も、その努力のおかげで見えてきた今の夢も見出していなかったかもしれない。
失敗が終わりじゃないし、成功が必ずしもゴールではない。
まさに、
ピンチはチャンス
なんだな、と思った。
もちろん逆もまた真なり、であるが。
たぶん、あのおっさんはそれを言いたかったのだと思う。
そのおっさんの経験から培ってきた感覚で言ってくれた「おめでとう」なんだと思う。
それに気づいてから、俺はあらゆる挑戦に、まず「おめでとう」と言うようになった。
告白、新しい学問への挑戦、などなど。
少し違うけど、高価な物を自己投資として購入、ということにもおめでとうと言うようになった。
結果はもちろん大事だ。成功するに越したことはないし、ミスれば悔しいだろう。
ただ、何もしないことに比べたら、成功も失敗もいかに上等なものか、という風に考えるようになった。
実は今日も「おめでとう」を言う予定がある。
ただ、今日言う「おめでとう」はこれまで述べたソレとは少し性質が違う。
というか、こっちが真っ当な使い方かもしれない。
先日、友人が晴れて22歳の誕生日を迎えた。
今日は彼の誕生日会なのである。
心から言いたい。
「誕生日、おめでとう!」